清水の次郎長とは


「さぁこいと冨士を背中にしょって立つ、漢の中の漢一匹 清水の次郎長」これは次郎長が亡くなって10年ほどたった時、乃木大将や福沢諭吉らとともに新聞に掲載された次郎長の紹介文です。次郎長は「海道一の大親分」としての人気も高いですが、清水では、地域のために奔走した大旦那として有名です。次郎長の人生は大きく4つ時代で構成されます。どの時代でもトップランナーとして活躍しました。

"Come on" said Shimizu-no-Jirocho, the manliest man of all men, standing with Mt. Fuji as his background.
This introduction phrase of Jirocho was in a newspaper approximately 10 years after his death, with the articles about General Nogi and Yukichi Fukuzawa. Jirocho is very popular as "the biggest boss in the Kaido area". In Shimizu, however, he is rather known as a big master working hard to develop this area.

<地域の問題児 悪がき時代>

〜15歳

駿河国美濃輪町 船頭高木三右衛門の4人兄弟の次男として誕生。
母方の叔父米穀商甲田屋 山本次郎八の養子となる。
粗暴を直すため由比倉澤の親戚に預けられる。
江戸進出を許されず、店の金百両を持って家出。浜松の米相場でひと財産築く。

<先物取引で莫大な財産を築き、地道に家業にいそしむ 商人時代>

16〜23歳

義父他界、心機一転。稼業に精を出し、店は繁盛をきわめる。旅の僧が人相を見て25歳の命と宣託。人生観が一変し、任侠を志す。

<腕と度胸で海道一の大親分となる 渡世人時代>

24歳~48歳

庵原川の津向一家と和田島一家の対決を1人で仲裁し、侠客として一躍有名になる。
清水一家22名は吉良の仁吉に加勢し、黒駒の勝蔵一家130人余を相手にする荒神山(鈴鹿市)の血闘など、「清水湊に次郎長あり」の名声を不動のものにする。
由比望嶽亭の店主は、官軍総司令官西郷隆盛と江戸城無血開城の話し合いをするため駿府に向かっていた山岡鉄舟が官軍に追われていたため、匿い、次郎長に託す。

<地域の発展に奔走する 地域貢献時代>

49歳~74歳

明治維新と同時に東征軍判事、伏谷如水から街道警護を命ぜられる。山岡鉄舟などとも交流し、新しい時代の清水について考え、清水湊を国際港にするために奔走。渡世人をやめて、地域を支える大檀那として、富士の開拓、英語塾の開講、医院の開設、東海道敷設の協力、文化的な施設や事業の企画実施など行った。74際で亡くなったときには3千人を超える参列者がその死を悼んだ。

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