次郎長が48歳の時に明治維新となり、武家社会から西欧文化を取り入れた新しい価値観が生まれる時代になりました。この時、渡世人をやめて74才で亡くなるまで多くの事業に関わり、清水の発展に奔走しました。
The Meiji Restoration had begun when Jirocho was 48 years old. He stopped being a professional gambler, and endeavored in many businesses for the develop of Shimizu until he passed away at the age of 74.
慶応3年3月7日官軍総司令官本部松崎屋善平宅(現在のペガサート)にいる西郷隆盛と江戸城無血開城の話し合いの『密書』を持った山岡鉄舟は、薩埵峠で官軍に出会い、倉沢の望嶽亭に逃げ込んだ。
望嶽亭では漁民の姿に変えさせて、清水湊の次郎長宅へ逃れさせた。
鉄舟は3月9日の会見場所までの護衛を次郎長に頼んだとされている。
幕府の凋落を見るに忍びないとして、海軍奉行の榎本武揚(のちの逓信、外務等大臣、次郎長の墓碑の揮毫者)は軍艦8隻を引き連れ品川沖を脱走するが、房州沖で台風にあう。咸臨丸は帆柱が折れ、修理のために清水港に入港。
しかし、9月18日、徳川家臣達を乗せた咸臨丸を官軍の富士丸、飛竜丸、武蔵丸が襲撃する。
官軍に切り捨てられ、港内に浮かんだままの屍を、厳しい官軍の眼をぬすみながら拾いあつめ、巴川東岸にある生家の土地に手厚く葬る。
「死ねば仏だ。仏に官軍も徳川もない。」という次郎長に山岡鉄舟は感服。以降、鉄舟が21年に亡くなるまで親交が続き、鉄舟から数多くのことを学び、大きな感化を受ける。
東征軍判事、伏谷如水から駿府周辺の街道警護役(現在の警察署長)を命ぜられ、侠客家業から足を洗う。
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